現在進行形で起こっているあらゆる現象を説明するためには歴史上の出来事抜きには語れない。例えば鎌倉幕府。そんなもの知っていようがいまいが生活には全く支障がないけれど、日本の政治機構の流れを説明する上では避けて通れない。頼朝がいなかったら未だに皇族と一部の貴族が政治をしていたかもしれないし、室町→江戸→明治維新の流れも存在しなかったかもしれない。そういう意味で日本史の最重要語句に指定されている。逆にその時代にどれだけ有名であろうと後世に残らない人物や事象というのもたくさん存在する。例えばモーツァルトのお姉さん。演奏能力では遥かにモーツァルトを凌ぎ、尚且つモーツァルトの楽曲ほとんどのオーケストラ編曲を担当している。モーツァルトの曲はお姉さんとの共作と言ってもいいくらいで、専門家筋ではモーツァルトより凄いんじゃね?という評価らしいが、残念ながらモーツァルトほどの歴史的人物にはならなかった。歴史の教科書には載らない「スゴイ人」はたくさんいるけれど、その時代の価値観、世界観を変えるインパクトがないと残念ながら後世には残らない。そういった具合で、単語を切り取って覚えるよりもその出来事の前後で時代がどう変わったかを検証していくことが歴史科目の醍醐味なんだけど、社会って科目はどうしても暗記傾向になりがちなのは仕方ないことなのか。
マリア・アンナ・モーツァルト (愛称:ナンネル)
礼装のヘアスタイルが大きいほど正義だった1700年代ヨーロッパ
さてここまで書いた上で、自分が考える歴史に名を残す条件「その前後の価値観を覆し、現代に至る一石となる」を全く覆す「え、なんでお前が教科書に?」という用語をたまに見つけてしまうから、さあ大変だ。特にこの人は何度教科書を読み返しても唐突感が否めないし、歴史上の文脈から見ても完全に浮いてるなぁという印象しかなく、常々彼には注目していた。それが「墨子」という人だ。
2006年に映画化されているらしい
ちなみに原作では敵は10万ではなく2万、挑んだのは1人ではなく2000人
盛り具合は、さすが中国
中国の戦国時代(紀元前770~前221年)、たくさんの学者が現れては多種多様な中国土着の思想が作られた。孔子様が作った儒教、老子様が作った道教が特に有名で、儒教はその後の王朝で国家公認の官学となり、道教は民間信仰として根付き、その後の中国人の根幹的思想となっていく。墨子が作った墨子思想もこの流れの中で現れる。キラ星のごとく優秀な思想家たちの中において墨子思想はひときわ異質、不自然なんだ。墨子思想を辞書で引くと
「兼愛」「非攻」のような理想主義的な平和思想
と書かれている。隣人を愛して戦争をやめましょうって、なんだそれ。一時期の社会党みたいなものか。戦争はよろしくないから軍事力を捨てよう、などと唱える怖ろしい危険思想の集団だ。そういった口だけの絵空事を声高に叫ぶ奴はいつの時代にもいる。なんでこんな思想とも呼べない理想主義が歴史に名をとどめているのだろう。戦争だらけの戦国時代で唱えるのもわからないでもないけど、実効性があるとも思えないし、全くもって謎でしかない。一番不可解なのが儒教、道教と重要度で肩を並べる御三家扱い。いや、なんでだよ。このモヤモヤをいつか晴らさで置くべきかとチャンスを伺っていたんだが、「墨攻」(酒見賢一著)を読んでやっと解消することができた。
当初墨子は儒教の一派へ弟子入りしたんだが、儒教の徒たちが学問を公権力と結びつく道具とし、戦争を煽ることしかしない現状を憂いて離反、反儒教として自分の教団を立ち上げる。墨子の非攻は武力を放棄するんではなく、逆に当時最高水準の武力を保持する最強武装集団を目指した。墨子は弟子とともに墨子教団を形成し、城攻めから城を守る「攻城戦」に特化したプロとなり、城攻めされている城主から救援依頼があればどこへでも助っ人として参戦する。つまり傭兵業を生業とするようになったんだが、傭兵と異なるのは依頼を無償で受けていたこと。この無償奉仕こそ思想家として墨子が後世に伝えられている理由でもある。もちろん寄付で教団は運営されていたものの、救援に関して報酬を求めない。その防衛成功率は5割以上。城主が外部に救援を求めるのはほぼ勝ち目がゼロの時に限るので、その防衛率の高さは驚愕に値する。今で例えると、アメリカがブータンへ武力侵攻してブータンを2回に1回以上勝たせるようなものだ。これは大げさな例えではなく、当時戦国時代の大国からの侵攻を小国の城主が撃退するというのは同じようなものだと思う。
高い城壁をを攻略するための「雲梯」と「井闌車」
攻城戦は基本的には攻める方が圧倒的不利
これだけ攻城兵器の開発合戦をしても
最も城を落とせる作戦が「内通者に開門させる」だし
専守防衛のために武力保持をすることはあっても、その武力を積極的に弱者のために利用するなんてことはまずありえない。武力集団が他国へ侵攻しなかったことは歴史上一度もない。宗教勢力の武力はほとんどの場合、体制側と妥協するためか自分たちが体制側に取って代わるかという下心からくるものだから。こういった無償で平和に貢献する軍事集団ってソレスタルビーイングしか知らない。どうやら墨子集団の幹部各人が太陽炉を持ったガンダムということらしい。アニメでなくとも、こういう綺麗事を実際にやってのけてしまう歴史上の偉人は少ないけれど存在する。王陽明や大塩平八郎、吉田松陰、田中正造あたりがそうだけど、やっぱり個人の活動では限界がある。彼らに大国の侵攻は阻止できない。墨子教団は思いつく限りの綺麗事を不言実行している実力集団とでも言おうか。
最強の知力・武力を持って弱者側の味方になり平和の均衡状態を保つ。しかも無償奉仕。これが墨子思想。反戦平和・反権力・弱者保護を叫んで、それを実行する気も能力もない輩たちと墨子を同列に考えてしまって本当に申し訳ない気持ちで一杯だよ。物語終盤、墨子教団の首脳部が秦と手を組んで中華を制覇しようという野望を企む。それは墨子思想の中核である反権力、弱者保護と大きくかけ離れると主人公革離は徹底して内部批判をする。このあたりで作者は墨子集団が消滅した遠因を暗示させる。のちに秦の始皇帝が中華統一した際に採用した思想が儒教の流れを汲む「法家」だったからだ。墨子教団は戦国時代が終わってから跡形もなく消えてしまい、その後同じような考え方は現れても(宗教団体は大概平和平和と叫ぶ)それを体現できる集団は一度も現れなかった。「その前後の価値観を覆し、現代に至る一石となる」という条件に墨子思想は全く合致しない。でも、なんか、墨子が世界史の教科書に載っている理由が少なからず分かった気がする。残さねばならない人、だろうか。俺が教科書の編集するなら必ず残す。革離は墨子のことを子墨子と敬称で名前を挟む(子は日本語の"様")最上敬称で師匠を呼んでいた。こういう凄い人と出会えるのも歴史の醍醐味か。俺もこれから子墨子をリスペクト。
漫画版「墨攻」
どうやって数万の大国の兵を数千の農民兵で撃退するか、職人芸的攻城戦を存分に楽しめる一冊。墨子集団のエース、主人公の革離が大国に睨まれ陥落寸前の城に派遣され自らの命と引き換えに見事守り抜く感動巨編